エンフィールド事件 実話という言葉は、ホラー好きの検索窓で何度も蘇ります。それは、住所も時期も人名も残り、音声や写真まで語られる…それなのに、結論だけが曖昧なままです。つまり「記録がある、しかし、決定打がない」という、最も後味の悪いタイプの怪奇事件です。
そこで本記事は、エンフィールド事件の実話として語られてきた現象や事実、なぜ、完全に心霊事件と言い切れないのかという理由、両方を丁寧に整理します。映画『死霊館 エンフィールド事件(The Conjuring 2)』の脚色ポイントとも比較し、この事件の「真相」にいちばん近い場所を探っていきます。
結論を急がないための前提:この記事のスタンス
そもそもエンフィールド事件は、信じる側と疑う側で「見ている地
」「地図」が違います。そこで本記事では、次の順序で話を進めます。
- 何が起きたと報告されているか(出来事の整理)
- 誰が関わり、何が残ったか(証言・記録の整理)
- なぜ疑われ、何が弱点か(疑惑点の整理)
- 映画との比較で、事実の輪郭を掴む(脚色の整理)
その上で、エンフィールド事件 実話という表現の「どこまでが確かで、どこからが推測か」を分けて示します。
エンフィールド事件が実話と呼ばれる理由:まずは事件の概要
エンフィールド事件(Enfield poltergeist)、それは、1977年から1979年にかけて、ロンドン北部エンフィールド地区の住宅で起きたとされるポルターガイスト騒動です。母親と複数の子どもが暮らす家庭で、物音や物体の移動、投擲、そして寝具の乱れなどが断続的に報告されたとされます。
この事件が「エンフィールド事件は実話である」として扱われやすい最大の理由は、この事件が、「特定の家」で「特定の時期」に「特定の当事者」が紐づき、報道・調査・回顧の層が厚いからです。単発の怪談と違い、この事件は、社会的な騒動として拡大してった点が大きな特徴です。
エンフィールド事件を語るうえで重要なキーワード
- ポルターガイスト:物音や物体移動など物理現象型の怪異
- 第三者の目撃:家族以外(警察官、記者、調査員など)が関与したとされる点
- 記録の存在:写真、録音、メモなどが残ったと語られる点
- 「声」現象:少女が老人のような低い声で話したとされる点
「エンフィールド事件の実話」の舞台:家と時代背景
舞台はロンドン北部の住宅街です。そこは、豪邸でも廃屋でもなく、生活の匂いが濃い場所だったからこそ、事件の怖さが増しました。心霊事件が「映画の中の出来事」で終わらないのは、そこには実際、台所があり、寝室があり、学校に行く子どもがいるからです。
1970年代後半のイギリスは社会不安も大きく、さらに、メディアのセンセーショナリズムも強い時代でした。こうした空気は、事件の拡散を後押しします。エンフィールド事件が実話として巨大化した背景には、その「現象そのもの」だけでなく「語られる環境」がありました。
エンフィールド事件で報告された現象:何が起きたとされるのか
報告される現象は多岐にわたります。ここでは、代表的なものを、読みやすく分類します。
音の現象(最初に始まりやすい)
- 壁や床からのノック音
- 足音のような音
- 引っ掻くような音、衝撃音
物体の現象(ポルターガイストらしさ)
- 椅子や家具が勝手に動く、滑る
- 小物や玩具が落ちる、飛ぶ、投げられる
- 引き出しや扉の開閉
寝具・生活の侵食(精神的ダメージが大きい)
- 枕や毛布が引っ張られる、乱れる
- 夜間の不眠、家庭内の緊張
象徴的な要素(議論が割れやすい)
- 少女の「浮遊(リヴァイテーション)」とされる写真
- 少女が老人のような声で話す「声」現象
ここで注意したいのは、これらが「すべて同じ確度の事実」ではないことです。実話のエンフィールド事件として語られる現象には、一次に近い報告から、後年の回顧で強調された要素まで混在します。
時系列で見る:エンフィールド事件の“流れ”
この事件は、ひと晩で完結するタイプではありません。もっと断続的に続いたとされる点が重要です。大まかな流れを表にします。
| 時期(目安) | 出来事(要約) | ポイント |
|---|---|---|
| 1977年 夏〜秋 | 異音や家具移動の訴え、近隣・警察・報道が関与 | 家庭内→社会的騒動へ変質 |
| 1977年 秋〜 | 調査員の出入り、記録の蓄積が進む | 観測者が増えるほど環境が“舞台化”する |
| 1978年 | 「声」現象や写真が注目され、議論が二極化 | 支持派と懐疑派が固定される |
| 1979年頃 | 現象が沈静化したとされる | 明確な“解決”がなく後味が残る |
この、「解決がない」という性質こそ、エンフィールド事件を“未解決の怪奇事件”として、その魅力を今だに生かし続けます。
争点の中心:「声」現象は何だったのか
エンフィールド事件の核心は、物が動くことよりも「人格が侵食されるように見える」点にあります。その象徴が“声”です。少女が低く荒い老人のような声で話し、そして、「自分は元住人の老人」だと名乗ったと語られます。
支持側が重視する点
- 録音が残っているとされ、後年でも確認できる
- 第三者が同席していたとされる場面がある
- 少女の年齢からすると長時間の発声が難しいという主張がある
懐疑側が重視する点
- 発声は特殊な喉の使い方や腹話術的手法でも説明可能という指摘
- 話し方や内容に子どもらしさが残るという見方
- 注目を浴びた環境では“役割”が固定化しやすいという心理的説明
音声は強力な材料ですが、音声だけでは「録音の外側」にあった空気が見えません。観客の視線、家庭の疲労、記者の期待。そうした要因が混ざっても、波形の上では分からないのです。だからエンフィールド事件 実話は、証拠があるのに決めきれません。
浮遊写真は決定打か:エンフィールド事件 実話が疑われる理由
写真は事件を象徴します。ところが、象徴であるほど疑われます。この浮遊写真は「ジャンプの瞬間ではないか」という疑惑と常にセットで語られます。
写真が決定打になりにくい理由
- 写真は前後関係(直前に何をしたか)を語りません
- 撮影者の位置と意図で見え方が変わります
- 心霊現象の主張は“再現性”が求めにくいです
つまり、写真は、エンフィールド事件が実話であるということを説得力を上げますが、それは、さらなる疑惑の火種にもなります。強い材料であればあるほど、それは強い反証を呼びます。
「一部は悪戯だった」発言が残す影
エンフィールド事件の評価が二極化した理由の一つが、その当事者が後年「一部は真似をした」と語ったとされる点です。これが、事実なら、事件全体の読み方が分かれます。
- 支持派:一部の悪戯があっても、その説明不能な核は残る
- 懐疑派:悪戯が混ざるなら、他も同様に疑うべきだ
どちらも筋が通ります。だから、決着がつきません。エンフィールド事件は、そのせいで、「全部が本物」でも「全部が偽物」でもなく、混ざり合ったグレーとして残りました。そのグレーが最も怖いのです。
メディアが事件を育てた:エンフィールド事件の“舞台化”
報道が入ると、家は舞台になります。そして、舞台になると、現象は「起きるもの」から「見せるもの」にもなり得ます。これは、超常の有無に関係なく起きる、人間社会の仕組みです。
舞台化が生む二つの効果
- 本当に異常が起きていた場合、その観測者が増えて記録が増える
- 演出や悪戯が混ざる場合、その成功体験が増え“現象が安定”する
つまり、証拠が増えるほど結論がさらに遠のく構造が生まれます。エンフィールド事件というものが、今だに「実話」として長生きしている理由は、現象だけでなく、その「語られ方」にもあります。
では『死霊館2』との違いは?:どこが脚色なのか
映画『The Conjuring 2(死霊館 エンフィールド事件)』は、事件を世界規模に広げました。ただし映画は“実話を素材にしたフィクション”です。違いを整理しておくと、実話側の輪郭が掴みやすくなります。
主人公の配置(映画はドラマのために焦点を移す)
映画の場合は観客が感情移入できる中心人物が必要です。そのため、特定の人物に焦点を集め、物語を一本化します。しかし、実話側は複数の関係者と多層の記録が絡むため、焦点が分散しやすいです。
敵の明確化(映画は“悪”を固める)
映画は敵が必要です。分かりやすい敵がいないと、恐怖が一本の矢になります。しかし、実話側は原因が曖昧で、終わり方も曖昧です。だからこそ、エンフィールド事件は、モヤモヤとした“解決しない恐怖”として残ります。
エンディング(映画にはクライマックスがあるが、実話は鈍い終わり)
映画は盛り上がって終わります。しかし、実話側は、いつの間にか沈静化したとされます。そのため、映画のように明確な「祓い」や「勝利」がありません。そこで生活の後味だけが残ります。
では結局、エンフィールド事件 実話なのか:三層で答える
「エンフィールド事件 実話ですか?」は、三層に分けると誤解が減ります。
騒動の実在
この騒動は実際に起きたことであることは間違いありません。報道や関係者が存在したという意味では、エンフィールド事件は、間違いなく実話なのです。
現象の実在
ここでは、実際に原因不明の出来事が報告・目撃されたとされる点は残ります。しかし、その全てが同じ確度で確定できるわけではありません。
原因の確定
それが、霊か、人か、心理か、偶然か。この層に関しても未解決です。だからこそ、事件は終わりません。
エンフィールド事件を今だに「実話」や「真実」と検索している人がいるのが、その証拠ではないでしょうか。映画を見てこの事件を知った人たちが、この話が実話であったと知り、調べて、そして原因を探ると迷子になる構造を持っています。その迷子こそが、事件の怖さです。
まとめ:事実と虚構の境界線に残った“生活のホラー”
エンフィールド事件は、騒動としての実在は硬い一方で、原因の確定はできません。だからこそ、エンフィールド事件 実話は「証明」ではなく「検証」のテーマとして生き続けます。
仮にすべてが悪戯だったとしても、恐怖が偽物だったとは言い切れません。注目が集まり、家庭が疲弊し、生活が侵食される。その構造自体がホラーです。逆に、悪戯が混ざっていたとしても、説明不能な核が残るなら、私たちは境界線を見失います。境界線を見失うことこそが、オカルトの最深部です。
扉のノックが止んでも、理由が分からないままなら、心はまだ部屋の中に置き去りになります。エンフィールド事件は、その置き去りを今も続けています。

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